宮本町
供車
(みやもとちょうともぐるま)
人 形なし(一時期一対の獅子)
作 者宮本町線南自治会 → 七軒町から借用しその翌年寄進を受ける
製造年幕末〜明治初年 → 昭和51年(1976年) → 昭和51年以前の比較的新しい年
お囃子宮本町本山車に同じ
検 証本庄市観光協会のサイトによれば、
・宮本町供車の制作年代は、幕末〜明治初期と記載がありますが、実際は昭和51年の製作で、一時的に屋根に載せていた一対の獅子の製作年代(明治5年以前)のことと勘違いされているのだと思います。たしかに一対の獅子は明治初期には、底抜屋台(車がなく人が担いで移動する屋台)に載せて引き回していたそうです。
・宮本町の山車は、他の町内の山車と違って、四輪の大きさが同じで、前輪の舵が切れません。京都祇園祭の山車の様に、舵棒を上に持ち上げながら無理矢理に舵を切る方式です。それゆえ、小回りが利かずに細い道や、坂道、線路の横断が苦手です。
・宮本町は面積が広く高崎線で南北に分断されています。当時線路の南側の人口増加が著しく、寄付をしても山車が線南にはあまりやってこないと言う不平が出ておりました。宮本の山車が線路を渡るには、当時の国鉄と詳細な打ち合わせをして、遮断機が長く空いている時間帯を選んで、一気に渡るという方法を取っており、とても大変でした。
そこで、線南の自治会の方が自分たちで「宮本町線南」という供車を製作してしまったのです。これで線南の細い路地をくまなく回っておりました。
・ところが、翌年になると線南自治会では運営しきれないと言って、宮本町に寄付をしてきました。額も「宮本町線南」から「宮本町」に掛け替えて、供車として本山車の後をついて廻り、本山車が坂を下りられずに他の町内の山車を待っている時には、単独で坂を下りたりしております。
・ある年に、屋根の飾りがあまりにもみすぼらしいので祭礼時に宮本町会館に飾る、「一対の獅子」を屋根に載せてみました。なかなか好評でした。
・ところが長老が、獅子は山車の後を行くものでなく、山車を先導するものだと言うことで、今度は供車が本山車の前を巡行するちぐはぐな運行形態になりました。
・2003年現在、破風付きの屋根を作ったせいか、獅子は降ろされてしまったようです。また昔通り本山車の後をお供しています。
宮本町囃子保存会関係者の方からの詳細な情報 さっそく昔のことを詳しく知っている方から、メールを頂きました。
・宮本町の供車は、線南自治会が作ったのでなく、「宮本町線南友の会」が当初七軒町から借用して運行し、翌年に寄進を受けて宮本町の供車となったそうです。つまり製作年代は昭和51年でなく昭和51年以前の比較的新しい年だと思われます。

また、供車の上に獅子を載せた理由について、大変詳細な情報を頂きました。
要約すると下記の様な理由からだそうです。
・平成4年(1992年)山車の修復の際、完成が遅れて11月の祭りに間に合わなくなった。
・祭り参加を見送るか否かの会議をした結果、供車に加えて明治5年当時から宮本町の祭りに存在する1対の獅子を出そうということになった。
・当初の発案は、「獅子を舞わせたい」という事で、練習をしたが重さのあまり、5分と舞えませんでした。
・それでは、供車の中に獅子を載せて引き回したらどうかという案が出ましたが、子供が乗れなくなってしまうので可哀相だとか、お囃子が乗れないということでボツに。
・獅子を供車の後部に置いて、囃子を前に運行する案も出ましたが、祭りのシンボルである獅子にお尻を向けるのはいけないということで、これもボツに。
・最終的に苦肉の策で、屋根に載せることになり、無事に祭りを終えることができました。
・その後、獅子の塗りに悪影響が出るのではないかという心配で、獅子も屋根から降ろされ宮本町会館に鎮座することになりました。
・平成14年(2002年)文化庁の文化財保存費→全国宝くじ収益助成金で獅子は塗り替えられ、本庄市の貴重な文化財として宮本町に保存されています。
七軒町から寄進を受けた供車と三交街の山車との関係情報募集中
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1976年撮影(看板は宮本町線南)1977年撮影(大太鼓が左にあるのは珍しい

なし


↑2001年撮影

↑2004年撮影


↑2004年撮影


↑2003年撮影(屋根が出来ました)


↑2001年撮影

なし




↑2001年撮影


↑2001年撮影

なし


↑2003年撮影 (どなたか本山車のデザインを真似して手芸したようです)


↑2001年撮影

↑2004年撮影

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